一流になるにはセンスが要る。そしてセンスとは別に相当の鍛錬が必要だろう。相当の鍛錬とセンスが掛け合わさり、センスが高いなら一流に。センスが低いなら二流か三流。
では、センスが低く鍛錬しない場合はどうなる。
この者は一体何者となるのか、だが、
当たり前だが、三流にもなれない。
その分野において、所謂役立たずとなる。
鍛錬とは万日の稽古のこと、これには相当する物理的時間の確保が肝となる。なので、いろいろな都合、例えば本人の意思は強く鍛錬したいと願いながらもそれが出来ぬのだ、という状況はあり得る。不遇というやつだ。この状況下にある者は十分に鍛錬出来ぬので、さらにセンスが低いなら、やはり残念ながら「その分野において役立たず」となってしまうが、この場合は少し不憫な要素はある。
では最後、次の場合はどうか。
一流になりたいと志願し、その希望が受け入れられ、鍛錬を実行する物理的時間と空間が保障されたとする。千日の稽古だろうが万日の稽古だろうが、食うに困ることなく、雨風の心配なく、毎日稽古に打ち込める状況を与えられたわけだ。センスの高低はまだはかり知れないが、この状況なら少なくとも次第に三流や二流にはなれるわけだ。
この状況に身を置く者が、ところがほとんど鍛錬せずに毎日の時間を過ごし続けるなら、この場合はどうか。
当然鍛錬しないので「その分野において役立たず」であることは間違いないが、それだけではないだろう。鍛錬の機会を何か(誰か)によって保障されているという恵まれた環境であるわけだが、その助力を目に見える程確かに得ながら、しかしこれを恩と捉まえる気質が欠落しているわけだから、これはもう単なる役立たずではなく「何者にも成り得ない、恩知らずのクズ」ということになるだろうと、個人的には確信するのだ。
ところで、その昔俺は気功の師に「私は今この瞬間、宇宙の全てに感謝します」と毎日唱えよ、という教えを受けた。毎日毎日、これを言え、と。
今だにこれを実践するとき、わずかな時間だが、自分はどのような恩の上に成り立つ存在なのか、それらの恩無くして果たして同じ自分が成り立ちうるのかという問いが起き上がることがある。
親と自分という関係性と経験はわかりやすい目に見える恩だが、それだけではない。明らかに関わっているヒトモノコトだけでなく、一見して特に関わりのないヒトモノコトにもちゃんと確かに恩がある、という風に。(なるほどこれも確かに「気を集め、気を練る」ことに繋がると師の宿題に納得済)
プロとして人間心理とそれによる成果の相関を何千ケースも観察したり介入したりといった活動を続けていると、ある文脈の成果の良し悪しというステージにも立っていない、上記で言う「恩知らずのクズ」的な心理主体に、時々出くわす。
そういう場合、一流だ二流だともっともらしくエラそうに語る前に、何に依って自分がそれを目指せたり、希望をもてたり、ワクワク出来ているのか、そのへんを一回、ひとしきり思い出せよ、という説教臭いリードになるw
「私は今この瞬間、宇宙の全てに感謝します」
これいっぺん言うてみ?なんか感じない?
どない?
みたいな(笑)
そう、うざい奴になるw
最近この記事に関係する事案が続いたので、
ま、シェア。
宇野ひろみ