かなり根本的な話になりそうなので、やや要約版にしておく・・
個人が実用心理学を学ぶ必要性とは、「人生の重要局面のほとんどに、あるいは日常生活世界の些細なシーンのほとんどに、自分と他者の心理が介在しているのに、その扱い方を学校ではほぼ習わないから」だと思う。
仕事、恋愛、夫婦、子育て、教育、営業、交渉、リーダーシップ、健康増進、習慣形成、依存、挫折、目標達成、意思決定――対象は違っても、その途中には必ず「人間」がいる。
ところが多くの人は、人間の扱い方を体系的に習わないまま大人になる。
「知識としての心理学」ではなく「使える心理学」
ここはPCMではかなり重要な区別になるよね。
心理学を知っている必要があるのではない。
使える必要がある。
たとえば、
「人は認知バイアスを持つ」
と知っていることと、
「いま自分は事実を見ているのではなく、自分の解釈を事実だと思い込んでいるなぁ」
と、その瞬間に気づけることはまったく違う。
「相手の立場に立つことが大切」
と知っていることと、
怒りで頭に血が上っている最中に、自分の知覚位置を切り替えて相手側から状況を再構成できることも違う。
だから実用心理学の修得とは、知っている心理学用語を増やすことではないわけよね。
反応しかできなかった場面で、選択できるようになること。
ここがセンターピンだと思う。
そして、この必要性は大きく三方向に一旦仕分けできる。
第一に、自分を扱うため。
人間は自分の脳を持って生まれるが、その取扱説明書は添付されていないよね。
感情がどう生まれるのか。
なぜ同じことを繰り返すのか。
なぜ分かっているのにできないのか。
なぜ怖くなるのか。
なぜ腹が立つのか。
なぜ他人の一言を三日間も脳内リピートするのか。
どうすれば状態を変えられるのか。
どうすれば習慣を変えられるのか。
どうすれば自分の意味づけを変更できるのか。
こうしたことを知らなければ、人生はかなりの部分、
「自分の心理に自分が振り回されるゲーム」
になっちゃうわけ。
実用心理学は、そのゲームのプレイヤーから、一段上のゲームマスター側(あるいはプログラマーやアーキテクチャー)へ移る技術とも言える。
第二に、他者と関わるため。
人生の問題の相当部分は「他人が存在すること」によって発生する。
もちろん幸福も同じだ。
愛するのも他人。
喧嘩するのも他人。
仕事をくれるのも他人。
金を払ってくれるのも他人。
協力してくれるのも他人。
腹を立てさせるのも他人。
育てるのも他人。
介護するのも他人。
つまり人生の質はかなりの程度、
「他者とどのような関係を構築できるか」
によって決まる。
にもかかわらず、人はコミュニケーションについてもほぼ我流である(我流とはいえ大部分はステレオタイピング)。
「ちゃんと言った」
「普通わかるだろ」
「そんな意味で言ったんじゃない」
「なんであの人はああなんだ」
この辺りから大量の事故が起きる。
PCMを学ぶということは、
自分の世界と相手の世界は違う
という当たり前だが恐ろしく忘れやすい事実を、実際のコミュニケーション能力にまで落とし込むことでもある。
第三に、人生そのものを設計するため。
ここが一般的な「心理学を学ぶ意義」よりPCMらしいところだと思う。
心理学は、困ってから使うものだけではない。
不安を減らす。
トラウマを癒す。
夫婦喧嘩を減らす。
落ち込まなくする。
もちろん全部重要だ。
しかし、それだけなら心理学は「故障したときの修理技術と工具」になってしまう。
なんというか、PCMはもっと攻めている。
何を望むのか。
どんな人生を面白いと思うのか。
何を意味あるものとして扱うのか。
誰と生きるのか。
何を学ぶのか。
何に時間を使うのか。
何を諦め、何を選択するのか。
10年後、どこに立っていたいのか。
つまり、
心理を「治す」のではなく、心理を使って人生を創る。
ここまで行って初めて「実用」なんだよね。
そしてもう一つ重要なのは、PCMを学ぶことで他人から心理的に操作されにくくなることだと思う。
広告、SNS、政治、宗教、営業、恋愛、組織、コミュニティ。
現代社会は、人間心理について何も知らずに生きるには、あまりにも心理技術で満ちている。
希少性。
社会的証明。
恐怖訴求。
権威。
同調圧力。
返報性。
フレーミング。
アンカリング。
アイデンティティへの訴求。
使う側だけが心理を知っていて、使われる側(あなた)が何も知らない。
これは結構危ない。
だから実用心理学には、
「人を動かす技術」であると同時に、「人に勝手に動かされない技術」
という側面もある。
うん。
要約版としては、ここに集約できる。
実用心理学を学ぶ目的は、人間を思い通りにすることではない。
自分にも他人にも「選択肢」を増やすことである。
怒るしかなかった人に、怒らない選択肢が増える。
逃げるしかなかった人に、向き合う選択肢ができる。
我慢するしかなかった人に、伝える選択肢ができる。
別れるしかないと思っていた二人に、関係を再構築する選択肢ができる。
「自分はこういう人間だから」と思っていた人に、別の自分で生きる選択肢が増える。
そして他者に対しても、
教えるしかなかったところで質問できる。
質問するしかなかったところで案内できる。
励ますことができる。
信じることができる。
そして必要なら、何もしないこともできる。
選択肢の少なさが人を不自由にする。
ちょうど良い選択肢の多さが人を自由にする。
だからPCMを「心理的問題を抱えた人のための専門技術」と位置づけるより、
読み書き、計算、ITリテラシーと同じような、人間が自分の人生を運営するための基礎リテラシー
として位置づけると、あぁだから20年間以上選ばれてきたんだなぁ、ってことの意味がかなり綺麗に見えてくる。
極端に短く言えば、
人間として生きる以上、人間の使い方くらい習っておいた方がいい。
――という話なんだと思う。
宇野ひろみ
https://lin.ee/EV5ZItF

