※この投稿は、PCM生・1UNO塾生向けです。
「私はうつだ」
「私は怒りっぽい」
人間を名詞にすると、説明は早くなる。
しかし、変化可能性は見えにくくなることが多い。
名詞は、動いているものを一度止めて見せる。
だから理解には便利だが、その人の現在を固定された人格のように扱いやすい。
診断名を否定する話ではない。
診断は、安全を守り、治療方針や制度利用を選ぶための大切な地図になる。
ただし、地図は人間そのものではない。
支援者が見るべきものは、診断名や中心症状だけではなく、その状態が「いま、何によって維持されているか」という流れでもある。
たとえば、
睡眠不足
↓
刺激に過敏になる
↓
対人衝突を起こす
↓
孤立する
↓
出来事を脳内でリピートする
↓
さらに睡眠不足になる
このとき問題は、「怒りっぽい人」という人格だけにあるのではない。
身体、刺激、関係、孤立、反芻、睡眠がつながり、同じ状態を再生産している。
名詞は写真だ。
座読みは動画を見る。
写真を一枚見ただけで映画の結末まで決めたら、さすがに監督も「まだ始まって5分ですけど」と言うだろうw
そして、循環の全部を一度に治そうとしなくていい。
探すのは、安全性も含めて、最も低コストで切り替えられる一箇所。
PCMでいう「危機的ポイント」だ。
それは必ずしも、最初の原因でも最大の問題でもない。
そこを少し動かすだけで、それまで流れ全体を安定させていた構造が外れ、全体がゴソッと別の方向へ転換する要所である。
だから、
「大きな問題には、大きな介入が必要だ」
とは限らない。
大きな岩を正面から押すより、小さな留め具を一本外したほうが、全体が動くこともある。
クライアントを「個」という一点だけで見ず、身体、時間、環境、人物、出来事との関係でできた「座」として読む。
そして、その座の中を何がどう流れ、どこで同じ状態へ戻されているのかを読む。
この「流れを読む」ことも、座読みの一種である。
君はいま、クライアントを何という名詞で見ているだろう。
その名詞を動詞と循環へ戻したら、どんな流れが見えるだろうか。
