こんな会話を思い浮かべてほしい。
会議のあと、同僚が近づいてくる。
「さっきの説明、助かりました。あれで、やることが分かりました」
こちらは反射的に答える。
「いやいや、全然。私、説明が下手なんで。途中も、ちょっとぐちゃぐちゃでしたし」
同僚はもう一度言う。
「でも、私は分かりやすかったですよ」
「いや、本当にそんなことないんです」
いつの間にか、説明の評価をめぐる小さな討論会が始まっている。議題は「この人に感謝してよいか」。感謝した本人が、感謝する正当性を説明させられている。
同僚は、お礼を言いに来ただけだった。プレゼンの第二部まで始まるとは聞いていない。
もちろん、謙遜は会話の習慣でもある。「いえいえ」が軽い挨拶として通じている場面もある。言い方を一つ取り上げて、性格を診断したいわけではない。
ただ、相手が何度も伝えてくれているのに、どうしても受け取れないとき。そこでは、相手の言葉が別の問いに変換されているかもしれない。
「あなたのおかげで助かった」が、「あなたは立派な人間です」に聞こえていないだろうか。
相手は、君の全人生を褒めていない
朝、家で不機嫌だった。返信を一件忘れている。昨日も先延ばしをした。人に見せていない、たいへん残念な引き出しがある。
そんな自分を知っているから、「助かりました」と言われると落ち着かない。
本当の私を知らないだけだ。そこまでの人間ではない。期待されても困る。
それで、褒め言葉が着地する前に打ち返す。
しかし相手は、引き出しの査察には来ていない。今日の説明で、やることが分かったと言っている。
君の今朝の不機嫌と、相手の午後の理解は、両方とも起きていてよい。
私がここで分けたいのは、「自分はどんな人間か」という全体の評価と、「この場面で、誰に何が起きたか」という個別の出来事だ。
説明に不出来なところがあった。それでも、相手には役立った。
十分に親切な人ではないかもしれない。それでも、今日差し出した傘で、誰かが濡れずに済んだ。
人格の完成を待っていたら、傘はいつまでも貸せない。雨のほうが先にやむ。
自分を低く見ることも、相手を見失う理由になる
PCMでは、コミュニケーションを、送り手の意図だけで終わらせず、受け手に何が生じたかまで含めて考える。
こちらが「うまく話せなかった」と思っていても、相手が「一つ分かった」と言うなら、そこには自分の採点表に載っていない情報がある。
その情報を聞く前に、「私にそんな力はありません」と消してしまうのは、少しもったいない。
自分を大きく見せるときだけ、人は自分に気を取られるのではない。自分を小さく見せる作業に忙しいときも、相手の顔が見えなくなることがある。
ここを読んで、「謙遜する私は、相手を見ていない駄目な人間なのか」と思ったら、少し待ってほしい。
また、全人生の審査が始まりかけている。
今日は、返事の一つを扱っているだけだ。君を丸ごと裁くための話ではない。
人から褒められるたび、あとで大きな要求をされた経験があるなら、身構えることにも理由がある。「あなたならできる」と言われて、仕事をどんどん増やされたことがある人もいるだろう。
受け取るのが難しい自分を、さらに責める必要はない。まず、目の前の言葉に何が含まれていて、何をこちらが付け足しているのかを見てみようぜ、というはなし。
今日のお礼を、明日からの契約にしない
「あなたがいてくれて助かった」
この言葉を受け取ると、これからも助け続けなければならない気がするのか。
次も期待を超えなければ。がっかりさせてはいけない。今度は断れない、と?
それなら、今日のお礼が、明日からの勤務表になる。
でも、「今回、役に立ててよかった」と言うことは、「今後の依頼をすべて引き受けます」と言うことではないよね。
今日、喜ばれたことを受け取り、来週の依頼は来週の条件で考える。できないことは断る。手に余るなら、別の人を紹介する。
感謝を受け取ることと、相手の期待を引き受けることは、別々に決めていいんだよ。
反対に、相手が本当にお礼を材料にして断りにくくしているなら、その圧力まで「ありがたく受け取る」必要はない。
「そう言ってもらえてうれしいです。ただ、今回は引き受けられません」
この二つの文は、同じ口から出してよい。口も、そこまで不器用ではない。
「ありがとう」は、相手の側で起きたことの報告でもある
「私は、感謝されるほどのことをしていない」
そう思ったとき、相手にとって何が助けになったのかを、まだ聞いていないことがある。
こちらは、質問に一つ答えただけかもしれない。相手は、その質問をしてよいかどうかで、ずっと迷っていたかもしれない。
こちらは、返事を一行送っただけかもしれない。相手は、無視されていないと分かって、次の作業に進めたのかもしれない。
これらは可能性の例だ。相手の気持ちを美しい物語で勝手に補完するのも、違う。知りたければ、聞けばいい。
「どのあたりが役に立ちました?」
もっと褒めてもらうための質問としてではなく、相手の経験を知るために。
思いがけない答えが返ることがあるだろう。自分が苦労した説明より、最後の「急がなくていいですよ」のほうが残っているかもしれない。
私の苦労の量と、相手が受け取ったものの大きさは、同じ目盛りでは測れない。
感謝を受け取るには、自分の価値を高く見積もる必要があると思っていた。けれど、相手には自分と違う経験があると認めることから、受け取れる場合もあるのではないか。
「私にはたいしたことではなかった」と「あなたには大切だった」を、同時に置いてみる。
片方を消さなくても、会話は続けられる。
欠点を消してから、喜ばなくていい
自分のしたことを改善するのは大切だ。説明の順番を直す。間違った数字を訂正する。遅れた連絡について謝る。
ただ、改善点があるたびに、届いた感謝まで返送しなくてよい。
これは反省をやめる話ではない。反省と、相手の喜びを聞く時間を、少し分ける話だ。
PCMで大切にする、存在価値と行動の評価を分けるという考え方を、ここでも使ってみる。
何かを間違えたからといって、人として丸ごと駄目になるわけではない。同じように、何かが役に立ったからといって、いつでも完璧な人を演じる義務が生まれるわけでもない。
今日の説明は役に立った。次は、もっと分かりやすくできる。
両方あっていい。
「まだ足りない」は、次の工夫を考える言葉として使える。しかし、今日すでに起きた良いことを取り消す権限までは渡さなくてよい。
感謝を受け取る練習は、自分に甘い点数をつける練習というより、毎回点数をつけなくても、人とやり取りできるようになる練習なのかもしれない。
次の一回、返事を一文だけ変えてみる
次に「ありがとう」と言われたら、すぐ自分の欠点を並べる前に、一息だけ置いてみる。
そして、たとえば、こう返す。
「役に立てたなら、よかったです」
まだ落ち着かないなら、
「そうだったんですね。教えてくれて、ありがとう」
それで会話を終えてよい。喜びを大きく表現しなくても、自信満々にならなくてもいい。必要な訂正があるなら、そのあとで具体的に伝えればいい。
目指すのは、褒め言葉を何でも信じる人になることではない。相手の言葉を聞いた瞬間、自分の総合評価へ飛んでいく動きに、一つ別の道をつくることだ。
冒頭の同僚も、ようやく席へ帰れる。
説明が助かったと伝えたかった。伝わった。よかった。
そのくらいの小さな出来事のまま、終われることには、静かな自由がある。
君はまだ、不器用かもしれない。未完成で、心配性で、人に見せたくない引き出しもあるかもしれない。
それでも、誰かの一日を、少し楽にしたことがある。
その二つを、もう争わせなくていい。
君が最近、謙遜と一緒に返してしまった「ありがとう」の中には、相手が君に知らせたかった、どんな小さな喜びがあっただろうか。
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本稿は、PCMで扱う「コミュニケーションの意味」「存在価値と行動評価の区別」、および「今日の咒術」の感謝に関する考え方をつないだエッセイです。
