「こんな扱いは、おかしい」
その言葉を、ちゃんと聞かなければならない場面がある。排除された。声を無視された。同じことをしているのに、自分たちだけ不利に扱われた。
そこで「怒らないで」「考えすぎだよ」と返せば、傷は深くなるかもしれない。
ただ、その苦痛を受け止めることと、「だから相手を傷つけてもいい」と認めることは、別だ。
この二つを、同時に守れるだろうか。2026年9月10日に『Frontiers in Psychology』へ掲載された研究は、その問いを考える手がかりになる。
怒りだけを見ても、わからないことがある
研究では、40か国の一般住民10,407人と、スペインで収監中のジハード主義の犯罪者80人を調べた。過去の研究で有力とされてきた12の要因を、同時に比較している。
調べたのは、単に「意見が過激か」ではない。政治や宗教などの大義を進めるために、暴力を使う意思がどれほどあるか、という点だ。
怒り、集団との一体感、差別されたという感覚などは、互いに重なりうる。一つずつ調べると関連が見えても、ほかの要因を一緒に考慮すると、関連が弱まる場合がある。
その重なりを考慮しても、一般住民の調査で比較的一貫した関連が残ったのは、次の三つだった。
三つの言葉を、暮らしの言葉へ置き換える
一つ目は、暴力を正当化する考え方。
論文では「道徳的中和」と呼ばれる。普段なら許されないと考える行為にも、大義のためなら例外を認めるような考え方だ。
日常の言葉に置き換えるなら、「自分たちの目的は正しい。だから、この手段も許される」という理屈になる。目的の正しさによって、手段を確かめる必要まで消してしまう。
二つ目は、大義から離れられなくなる情熱。
「強迫的情熱」という言葉は、ここでは診断名ではない。大切な活動や信念への関わりが、自分で選び直しにくくなり、ほかの生活や価値とぶつかってもやめにくい状態を指す。
たとえば、「今日は休もう」と思っても、休む自分を裏切り者のように感じる。意見への批判が、自分の存在すべてを否定されたように響く。これは概念を理解するための例で、こう感じた人が暴力に向かうという判定ではない。
三つ目は、自分の集団が不当に扱われているという感覚。
「知覚された差別」という専門用語は、差別が思い込みだという意味ではない。調査で測ったのが、本人がどう経験し、受け止めているか、ということだ。
収監者80人の調査でも、前の二つとの関連は比較的一貫していた。一方、差別された感覚との関連は、一般住民ほど明確ではなかった。この小さな収監者標本の結果は、今後の再確認が必要だ。
三つあれば危険、というチェックリストではない
この研究は、ある時点の回答を分析した横断研究だ。三つの要因が暴力への意思を生んだのか、逆の影響があるのか、別の要因が関係したのかまでは決められない。
また、暴力を使う意思と、実際に暴力を振るうことは同じではない。個人が将来何をするかを判定する道具として使うこともできない。
怒りとの関連がほかの要因を考慮すると弱まったからといって、怒りが無関係になったわけでもない。
まして、不公正を訴える人や、信念を持って活動する人を「過激化している」と決めつけるための研究ではない。
痛みを聞くことと、攻撃を認めることを分ける
ここからは研究で効果が実証された方法ではなく、私が講座やコミュニティでの対話へ引きつけて考えた応用だ。
対立が起きると、私たちはすぐ「どちらが正しいか」を決めたくなる。その前に、三つの話を分けて聞いてみたい。
まず、何が起きて、何がつらかったのか。
「差別された気がするんですね」とだけ返すと、実際の扱いまで気持ちの問題にしてしまう。具体的に何をされたのか、何が確認できるのか、どんな支えや是正が必要なのかを聞く。苦痛を受け止めつつ、事実の確認も丁寧に行う。
次に、その大義の外にも、その人の生活があるか。
同じ意見でなくても会える友人はいるか。活動と無関係に楽しめる時間はあるか。一度休んでも、戻れる場所はあるか。
これは情熱を薄めるための問いではない。大切なものに関わりながら、その関わり方を自分で選び続ける余地があるかを確かめる問いだ。
そして、痛みが何を許す理由になっているか。
「ひどいことをされた」から「だから、こちらも何をしてもいい」へ、話が移っていないか。異議を申し立てること、距離を取ること、第三者へ相談することと、相手を脅したり傷つけたりすることを分けて考える。
日常の口論と、研究が扱う思想的な暴力は同じではない。それでも、目的を語るときに手段の検討を省いていないか、という問いは、身近な対話でも持っておける。
正しさを大切にするなら、手段も確かめる
私がここで「意識進化」として考えたいのは、自分の確信が強いときにも、その確信を点検できることだ。
自分たちの主張には理由がある。苦しんできた人もいる。それでも、選ぼうとしている行為が、誰に何をもたらすかは別に確かめる。
「その傷は本当に大切に扱われるべきだ」と伝えながら、「その行為は認められない」と言う。一見、相反するようでいて、この二つは両立する。
被害を小さく見積もらず、新たな被害も正当化しない。その両方を引き受けるところに、対話を続ける余地がある。
今日の咒術
傷ついた感覚は尊重する。しかし、その傷は誰かを傷つける免許ではない。
君が「こちらが正しい」と強く感じるとき、その正しさのために選ぼうとしている手段まで、確かめられているだろうか。
原論文
“An international tournament of risk factors for radical intentions: evidence from 40 countries.” Frontiers in Psychology(2026年9月10日公開)。
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