今日、ある門下生と「恐怖」を扱った。
何が怖いのか。
担当するクライアントが、自殺してしまうこと。
メンタルをケアするプロとして、それは「明確な失敗」を意味するらしい。
そこで聞いた。
「で、その失敗で、何が不都合なのだ?」
随分な質問だと思うかもしれない。
しかし、ここで扱っているのは、ひとりの人が亡くなることの重大さではない。この門下生の中で、その出来事がどのように「恐怖」として組み立てられているのか、である。
返ってきた答えは、ふたつだった。
他者から批評され、無能だと烙印を押されるのではないか。
そして、自分の中で自信を失い、罪悪感に苦しむのではないか。
なるほど。
ここで、恐怖の輪郭が少し変わった。
「クライアントが死ぬ」という未来の先に、「他者から裁かれる自分」と「自分を裁き続ける自分」がいた。
外にも裁判官。内にも裁判官。
しかも、どちらの法廷も、まだ開かれていない。
君は、未来の出来事だけでなく、その出来事を材料にして始まる裁判まで、現在の頭の中で生きているわけだ。
***
誤解しないでほしい。
この門下生が、クライアントより自分の評判を大切にしている、と言いたいのではない。
他者への気遣いと、自分が傷つくことへの恐れは、ひとりの人間の中に同居する。「助けたい」という願いがあるからといって、「責められたくない」が消えるわけではない。
むしろ、そこを率直に言葉にできたことに、このケースの価値がある。
「命を預かる仕事だから、怖くて当然です」
そうまとめれば、会話はきれいに終わる。
しかし、きれいに終わった会話の下に、何が残るだろう。
無能だと思われたくない。
自分を嫌いになりたくない。
失敗した自分として、その後の人生を生きたくない。
そこまで見えて、ようやく扱える。
「恐怖」という大きな箱のままでは、中に入っているものを取り出せない。
***
さて、宇野には、このふたつがない。
担当するクライアントが亡くなった経験はある。その一方で、生きる力を取り戻していったケースが、その千倍ある。
ただし、この話は、千人の回復でひとりの死を相殺する計算ではない。
人の生死は、支援者の成績表を整えるためにあるわけではないのだから。
ここで言いたいのは、ひとつの結果によって、それまでの仕事のすべてを「無能」の一語に書き換える理由はない、ということだ。
そして、実績が積み上がったから恐れなくなった、と説明しても、それは宇野の経験と合わない。
駆け出しの頃にも、他者の烙印や、将来の自責への恐怖は特になかった。
百発百中で治せる外科医が存在しないことを、知っていたからだ。
どれほど研鑽しても、人の生死を完全には支配できない。
これは、努力をやめる理由にはならない。努力をどこに向けるかを決める前提になる。
知識を増やす。技術を磨く。兆候を見落とさないようにする。自分の力量を超える状況なら、適切な専門家や医療につなぐ。必要な相談をし、判断と対応を振り返る。
できることはある。するべきこともある。
それでも、結果の保証までは手に入らない。
ここで、「結果を保証できない」と「何をしても同じ」を混同すると、話がおかしくなる。
外科医がすべての患者を救えないことと、その手術に検証すべき問題があったかどうかは、別々に考える必要がある。
心理支援でも同じだ。
亡くなったという結果だけで、担当者の無能や過失が確定するわけではない。一方で、「人は必ず死ぬ」と言えば、対応の検証が不要になるわけでもない。
結果を引き受けて検証することと、自分の全存在に有罪判決を出すことは、違う作業である。
***
「クライアントが自殺したら、明確な失敗だ」
この言葉には、省略がある。
生きていてほしかった。
支援が届いてほしかった。
死を防ぎたかった。
その願いがかなわなかった、という意味なら、何を「失敗」と呼んでいるのかは分かる。
しかし、そこから、
「だから自分は無能だ」
「だから自分には価値がない」
「だから二度と支援をしてはいけない」
まで進むなら、その間には、検討されていない推論がいくつも挟まっている。
何を知り得たのか。
その時点で何を判断したのか。
どんな対応が可能だったのか。
何が足りなかったのか。
自分の担当範囲と、他の人や機関が担う範囲はどこだったのか。
結果が出たあとには、「分かるはずだった」と思えることがある。しかし、あとから知った情報まで、当時の自分が持っていたことにはできない。
反省するなら、具体的に反省することだ。
「私は無能だ」は、強烈な言葉のわりに、次に何を変えるのかが分からない。
「この兆候を捉えた時点で、相談すべきだった」なら、次の行動に接続できる。
自分を罰する言葉は、ときどき、検証している気分だけを作る。
***
ここには、現実の不確実性もある。
英国NICEの自傷に関するガイドラインは、将来の自殺を予測するためにリスク尺度を使うことや、「低・中・高」という分類に依存することを勧めていない。その人のニーズと、現在および長期的な安全をどう支えるかに焦点を当てるよう求めている。NICEの勧告
評価しなくてよい、という話ではない。
評価をすれば未来を確定できる、という話にはならないのだ。
宇野はここから、支援者には、不確実さが残る中でも必要な行動を選ぶ力が要る、と考える。
「絶対に大丈夫だと言えるようになってから、支援したい」
その条件では、いつ仕事を始められるだろう。
***
では宇野は、そもそも死が怖くなかったのか。
違う。
「サイコパシーが高いから平気だった」と片づけると、肝心の過程が消えてしまう。
恐れがあった。
だからこそ、担当するクライアントが亡くなるという事態を、脳内で何百回もシミュレーションした。
宇野の理解では、それによって順化を促したのである。
起こってほしくないことを、起こり得ることとして、自分の世界に置いておく。
考えたくないからといって、現実の可能性から削除しない。
「そんなことは起こらないはずだ」という条件を、自分が支援を続けるための足場にしない。
ここで、宇野の経験をそのまま全員向けの処方箋にするつもりはない。
何百回も想像すれば強くなれる、と回数を競っても仕方がない。想像を重ねることが、本人にとって準備として働いているのか、それとも自責を繰り返す時間になっているのかは、区別したい。
門下生がこの経験から学ぶなら、死の場面を鮮明にすることより、その可能性に触れたとき、自分の思考と行動に何が起こるかを見るとよい。
現実を見る余地が増えるのか。
相談する相手が具体的になるのか。
自分の限界を認めやすくなるのか。
それとも、頭の中で自分を責める声だけが大きくなるのか。
備えた結果、君は何ができるようになったのか。
そこを見てほしい。
***
そして、宇野にとって重要だったのが、死生観だ。
背骨にインストールしていた、メメントモリの三つの真実。
人は必ず死ぬ。
いつ死ぬかは分からない。
人生は一度きり。
宇野は、この三つを前提としている。
「人は必ず死ぬ」
ならば、自分が関わった人だけは死なない、という特例を、職業上の理想に紛れ込ませるわけにはいかない。
「いつ死ぬかは分からない」
ならば、今日できる確認や働きかけを、明日も機会があるつもりで先送りにはできない。
「人生は一度きり」
ならば、クライアントが実際に生きる、その人の人生に関心を向けたい。自分が有能な支援者として安心することだけで、面談を終わらせたくはない。
この死生観は、宇野にとって、現在の関わりを真剣にする土台だった。
もちろん、「いつか死ぬ」ことと、「いま防げる死を防ぐ」ことは両立する。
必ず終わる一日だからといって、今日の約束をどうでもよくはしないだろう。
終わりがあると知ったうえで、どう関わるのか。
そこに、仕事がある。
***
もうひとつ、門下生に考えてほしいことがある。
「自分の支援によって、この人は生きる力を取り戻した」
そう感じる経験はあるだろう。支援が役に立ったことも、実際にあるだろう。
しかし、そこには本人の力がある。他者との関係がある。生活条件の変化も、医療も、支援者には見えていない出来事もある。
回復をすべて自分の手柄にするなら、悪い結果もすべて自分の責任だと感じやすい構えを、自分で育てることになる。
成功のときだけ全能で、失敗のときだけ有限、というのでは、都合がよすぎる。
自分の働きかけには意味がある。
そして、自分の働きかけだけで、その人の人生ができているわけではない。
この二つを、同時に持っていられるか。
支援者としての自信も、ここから考え直せる。
「私は必ず救える」だけが、自信なのだろうか。
「分からないとき、分からないと言える」
「必要なときに、他者の力を借りられる」
「自分に不都合な事実も、検証の場に出せる」
「誤りがあれば、対応を変えられる」
こういう自分への信頼なら、育てていける。
***
そして、宇野に罪悪感への恐怖がないことを、君が達成すべき感情の基準にしてはいけない。
クライアントの死後に、罪悪感や衝撃、悲しみ、自信の揺らぎを経験する支援者はいる。54研究をまとめたレビューでも、そうした反応や、その後の実践への影響が報告されている。支援者への影響に関する研究レビュー
感じたから失格、ということにはならない。
「罪悪感を持つ自分は、まだ未熟だ」と、新しい裁判を始めても仕方がない。
感情が生じることと、その感情が告げる判決を事実として採用することは、分けてよい。
罪悪感があるなら、何について責任を感じているのかを確かめる。実際に改善すべきことがあるなら、改善する。悲しみや衝撃を抱えているなら、支援者自身も支えを受ける。
苦しみ続ける長さを、誠実さの証明にしなくてよい。
他者からの批評も同じだ。
批評の中に具体的な指摘があるなら、検討する。
ただ「無能」と呼ばれることと、対応のどこに問題があったのかを指摘されることは、分けて受け取れる。
批評を受けないことは保証できない。
受けた批評を、どう扱うかは学べる。
***
ここまで読んだ門下生は、自分について、次の三文を書いてみてほしい。
「担当するクライアントが亡くなると、私は____を意味すると考えている」
「それが怖いのは、その後____になると思っているからだ」
「その恐怖によって、現在の支援で____をしている/避けている」
三つ目まで書くことが大切だ。
恐怖があることで、丁寧に確認し、相談し、連携できているなら、その働きは見てよい。
一方で、無能だと思われたくなくて相談を遅らせる。自分を安心させたくて、相手の「大丈夫です」を早々に採用する。能力を証明しようとして、担当できる範囲を超えて抱え込む。
そういうことが自分に起きていないか。
これは、この門下生がそうしていたという話ではない。各自が、自分の仕事の中で確かめるための問いだ。
恐怖の内容が立派に聞こえるかどうかより、その恐怖が、いまの関わりに何をさせているか。
そこまで見て、ケーススタディになる。
***
今日のやりとりは、クライアントの死について始まった。
そして、まだ起きていない出来事によって、自分の価値が失われることへの恐怖が言葉になった。
これを見つけたからといって、恐怖が即座に消えるとは限らない。
ただ、扱う対象は具体的になった。
他者の評価。
自分への判決。
専門家であることに課している条件。
自分が担える責任。
そして、人が生き、死ぬという現実。
宇野の恐れ方を、君の恐れ方に上書きする必要はない。
君には君の準備が要る。
百発百中の自分を約束しなくても、目の前のひとりのために、学び、確かめ、相談し、動くことはできる。
君は、人の生死を完全には支配できないという現実を引き受けたうえで、今日、どんな支援をするのか?
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