有ったはずのものが消えて無くなる。
有⇒無
仏教思想の一部では、存在というものはたとえ一瞬であったとしても、その同一性を保つことはできないと言い切る。
それ故、有ったはずのものが消えて無くなることは、至極当然。
心を鍛えてこれを悟れ、と当該思想はとても厳しい。
が、
えらく、好みだ(笑)
(当該仏教思想が、ね)
(個人的に、ねw)
ヒトモノコトや、それらとの「関係性」一切が『存在』だとして、
その存在は、諸行無常。
その同一性を保つことなどできない。
(もっかい書いた)
このマインドは、乾いていて無味か?
味わいがなく、非情緒的で、機械じみているか?
そんなことはない。
ある現象について、その瞬間の色付けが、次の瞬間に影響しない。
これはどのような色付けも「個人においてまったくの自由」であることを、まず担保しているし、その上で次の瞬間における意味付けでもって、必要であれば「取り返しが利く可能性」を示唆しているのだ。
何事も、挽回可能なのだ、と。
やり直せる、何度でも。
取り返せる、何度でも。
これこそ情緒的である、と俺は伝えたい。
これほどまでに味わい深い世界観は無いのだ。
(無論、情緒性にそれほどコダワリはないのだけれどw)
目は見たものを忘れる、脳が覚えているだけだ。
耳は聞いたことを忘れる、脳が覚えているだけだ。
我々は、特に五感で世界と繋がっている。そのインターフェースたる目や耳や鼻は、今探知したモノ・コトをたちまち忘れる。てか、そもそも記録しないし、それ故に”意味付け”しない。
世界を探知はするが(個体保存のため、危険回避とか)、原則的に、すべてをスルーする。シラッとな。
しかし、生物ヒトとしての最終臓器たるポンコツな脳が、探知したヒトモノコト(世界)をいちいち記録する、そのための意味付けの仕組みにて。
この意味付けメカニズムが失笑レベルでポンコツだ。
いや、失禁レベルだ。(意味不明w)
ポンコツなる意味付け構造の核は、自己同一性。
世界(ヒトモノコト)、つまり探知した現象を、まず自分に合う合わないで大雑把に仕分けし、
喜ぶ・怒る、許す・許さない、OK・NG、面白い・つまらない、幸・不幸………..
などのジャッジメントに、直ちに辿り着くのだ。
以後、当該現象(存在)は、ジャッジした通りにしか再生されない(思い出されない)ので、
例えば、
当該現象=許せないこと
と、現象そのものに意味が付加され、当人の中で「事実(真実)」が成立する。成立後、原則的には再審理は実行されず、死ぬまで一生、許せないことのままだ。
おいおいw
まず「自分(私)」が何ものなのかも知らないくせに、その自分に合うか合わぬかってソレ・・・w
自分の足のサイズを全く知らないでいて、どのサイズの靴を買うのか、決めることができるのか?
無論できないのだが、それを毎日何回も何十回もやり続けているのが、我々の脳なのだ。
ポンコツだぜ、まったく。
脳みそのポンコツ具合に関しては、まだ山程伝えてみたいことはあるが、ここらへんで大胆に今日の記事を要約しておこうw
そう、時間切れだからな。
要するに、
有るってことは、瞬間には成立するが、これは次の瞬間に保持されない。
これを諸行無常と仏教思想の一部では教えるが、
この諸行無常がどうしても腑に落ちぬのは、あなたのせいじゃない、我々のポンコツ臓器、つまり脳のせいなんだ。
記事冒頭で、
「心を鍛えてこれを悟れ」
と書いたが、この心とは、つまりポンコツ臓器、
そう、脳のことなんだ。
それで、この脳をポンコツではなく、めっちゃええ感じの知性と柔軟性に仕上げる訓練として、
実用心理学をトレーニングしている。
それが再三伝えまくっている、一生に一回でいいから通り抜けて欲しいスクール
PCSなのだ。
諸行無常が、ちゃんとわかれば、今この瞬間を私史上最高に面白がれるし、
どんな失敗も、挽回できる。
気が済むまで。
失敗しまくろう。(楽しいからw)
そして挽回しまくろうじゃないか。
(おもしろいから)
宇野ひろみ
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