同情されるな、願わくば達成して賞賛されろ。頼むからw

 

 

賞賛されるか、同情されるか。

 

何かの達成や実現、進化を褒め称えられることと、苦悩や気持ちの落ち込みを思いやり憐れまれること。これらは違う様に見えて、実は当人にとっては大差のない快楽をもたらせるのだろうね。

 

賞賛されたとき、自尊心が保たれ、自己信頼が増し、気持ちいい。

同情されたとき、孤独感が薄れ、自己が承認され、気持ちいい。

 

どっちもちゃんと気持ちいい。

 

賞賛する/同情する側の反応を観察すると、賞賛よりも同情する時のほうが明らかに口数は多いし掛ける時間も長い。「する側」も同情によって自分の何かが肯定され(あるいは何かが保たれ)、とても気持ちがいいのだろう。逆に誰かの偉業を賞賛する時にとても清々しい気分でそれを口にする人はそれほど多くはないのかも知れない。そして賞賛に掛ける時間は短いものではないだろうか。

 

賞賛される為には努力を要する。もちろん「努力している」というのは客観的にみた様であって当人は「ただやりたいから必死でやった」ということなのは間違いないにしても、「やりたいからひたすらやり続ける」様に自分を設定(設置)したわけで、設定時点まで遡ればやはりしっかり努力した、がんばった、ということでいいはずだ。そのようなガンバリによって賞賛に値する何かを成し遂げたのだ。

 

では同情される為にどの程度の努力が必要か。個人的に想うのだが、これにはほとんど努力を必要としない。自分が生活する視界のどこかに不幸を見つけ出して苦悩し、それを嘆けばいいのだ。これにどんな努力が要るのかを考えれば観える。その嘆きを表現する場の獲得や維持(悩みを打ち明ける仲間や友だち付き合い)に常日頃からある程度のエネルギーは注いできたかも知れない。しかし賞賛を得るプロセスの難易度と比較してみれば、それはもう遥かに簡単なことだろう。しかも上述したように「する側の意図や気持ちよさ」も加味して考えれば、同情を得ることなど、どこにも難しさのない安易な作用であり、作業なわけだ。

 

賞賛されるか、同情されるか。

 

つまり、賞賛より同情の方が遥かに簡単に手に入る。

それでいて、賞賛されるのとそれほど変わらない程度に、ちゃんと気持ちいい。
(ともすると同情の方が気持ちいいのかも、だが)

 

 

これはもう100人中99人は「同情される」を選択するぜw
「気持よくなりたい」という意図を持った100人、という前提だが。

 

もちろん「賞賛されるか/同情されるか」この問い自体が、「そのどっちを得るのか、という二元論にどんな意味があんだよ」「気持よくなるにはその二つ以外にナンボでも他に手段はあるだろ」というのは当然なるツッコミだろうし、実際そのように突っ込んで欲しいと想う。
しかし、だ。

賞賛を求め、いや正確に書き直せば「(結果的に)人から賞賛を得られるような目標の達成や願望の実現」を求める成長者が、歩む過程のココソコに見つけ出す不幸を嘆き散らしては同情を得、またさらに視界に苦悩を見つけては同情獲得の原材料にするのなら、目標達成のプラン実行がままならぬうちからイチイチ同情によって気持よくなっとるわけで、当該目標達成に対してドーパミンを誘発するどんな理由も無くなってしまうではないか、ということが言いたいのである。

 

自分が価値あり、と感じて設定した目標達成への動機付けがいまいち持続しない明確な理由のひとつが、コレなんだろう。旅の途中で目的地とさほど変わらない情動を手に入れまくっている旅人に、それでもやはり目的地へと駆り立てるものは何なのだ?

 

 

そんなものはない

 

 

映画なら2時間程度で完結せねばならない前提から、それでもなぜか目的地へと駆り立てられる展開にどうしてもなるが、そんな”不自然”なことはないのだ。目的地到着とそれほど変わらない程度に”気持ちよく”なったとしたら、もう行かんでええやん、目指さんでええやん、てか目的地変更!ってのが自然というものだ。

 

実際何かを目指したが到達しない方々の間で必ず落とし所的に交わされる会話の典型が「これでいいのよ。叶わなかったことは残念ではない。目指してやってきたことで私はどれほど人に恵まれ、幸せを手に入れていたのかに気づけたのだし・・・」的な、なわけで。

 
成功する人間は自分の視界に不幸を見つけ出す代わりに成長の種を見い出すのだ。なんてことはどの成功本にも共通して書かれ続けてきたクダラン話だが、この記事のここまでの記述はこのクリシェ(決まり文句)を不本意ながらサポートしてしまうわけだw

 

もうしょうがないのでサポートしてしまうが、本当にそのとおりだ!
どっちが良いの悪いのというジャッジには興味はない。どっちにしろちゃんと気持ちいいし、ちゃんと幸せなのは知っている。ただ、それを「実現したい」のなら、同情を買いに行くな、そして誰かにそれを「実現させてやりたい」のなら同情を売るな。

というのも、同情を買うのも売るのも「効果的ではない」からね。だ。

(それ、がどんな目標であれ)

ほとんどの同情する人(同情をする側の人)も、それによって当人の目標達成へと歩む足を引っ張っていることについて無自覚過ぎるのだ。本当に当人に夢を叶えて欲しいなら、簡単に同情するんじゃねぇよ。

同情しなくても、そして同情されなくても、(お互いに)”あなた” はちゃんと成り立つし、それこそもっと目標効果的な「気持ちよさ」のパターンを自身に組み込むこともできる。この記事には、なぜUNO流コーチングでは無茶振りとダメ出しばっかやるのか、のひとつの答えを示したつもり。